「コクリコ坂から」

2011.08.2.kokuriko

 

◉新作アニメ映画「上を向いて歩こう。コクリコ坂から」を見た。舞台は翌年に東京オリンピックを控えた、1963年の横浜。古いものを壊し、どんどん新しいものを作っていこうとする気運のなかで、横浜のとある高校での恋愛物語。◉「歴史的な時代の変化が日本の国にあったということが届いていない。」永々と伝えられた古き良きものを切り捨て忘れ去られたものの中に、もっと違った可能性があったのではないか。苦しい涙を流した後は「志の旗を掲げ、上を向いて歩こう」よ。と言う宮崎親子の深い想いが込められたアニメではあるのだが、3.11大震災の実体験以降に企画されていればかなり違った内容になって、感動の質が異なっていたことだろうと思うのは私だけではないだろう。

 

8月29日追記:「コクリコ坂から」の企画は一昨年、製作は昨年からだから上記3.11がらみの私の感想は筋違いと反省していた所、8月28日に@miyasan_bot ジブリの森 非公式botの宮崎駿監督のTwitterを読んだ。次回作がますます愉しみです。

 

tuiki.miyasan

 

1963.17.atuya

 

◉1963年と言えば私がまさしく17才、高校3年生の時代だ。映画館の暗闇で見るガスコンロで炊いた吹き出す泡には匂いがしたし(私の家ではまだカマドだったが)、ガリ版切りのシーンでは、京都堀川高校での生徒会執行部室内の仲間が思いだされ懐かしい青春時代が蘇った。私は図書委員ではあったが、生徒会新聞のガリ版切りを良くやらされたものだった。その証拠写真が残っていた(上左写真)。◉生徒会長は山口敦也君(右写真左)と言う健康そのもので闊達な好青年で大親友だった。高校卒業後私がデザイン学校で学び、大阪のデザイン会社で全学連の反安保デモなどを横目に徹夜続きで働いていた時、唐突にその彼の訃報をご家族から電話口で聞いた。そして「最後まで中谷君に会いたがっていた」と・・・。◉なんと25才だった。葬儀に出席しいつの間にか火葬場まで同行することになり、骨を拾う時に見た背骨は、中央20cmくらいだけが真っ白ではなく黄色みがかっていた。詳しい死因は聞き忘れたが多分癌だったのではなかろうか。彼女だと思われる女性もいて彼の骨を素手で拾いカリカリかじっていて「あっちゃん、あっちゃん、どこへ行ったの・・・」とズッと叫んでいたのを忘れられない。◉25才で死ななければならぬ運命を、どんな悔しい想いで受け止めていたのだろうか? そんなことを考えると1〜2週間涙が止まらず仕事にならなかった。(当時デザイン画はポスターカラーで描いていたので、涙が落ちたのでは滲んで完成しない)そして彼のやり残した分まで存分に生きることしか供養はないとなんとか立ち直り、思い出詰まる京都・大阪から東京に出たのだった。そんなことを帰りの電車で思い出してしまった。

Category: 周りの人々   |  Comment »


お気軽にコメントをどうぞ!



     

ページの先頭へ戻る