Archive for 8月 2011


近況とGood News

2011年 8月 12日 — 3:21pm

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◉3月から始めた肺がん抗がん剤治療(ゲムシタビン・別名ジェムザール)も昨日16回目を済ませた。図のようにがん細胞は増えも減りもしないが、元々この薬ではがんを死滅させることは出来ず、抑えられれば良しとして、効果がなくなるまで続けることになる。さすがに半年も続けると副作用のダメージがジワジワ出て来ていて、月3回ペースで血液検査と太い点滴針を刺すので血管が弱って刺す所が無くなって来たり、目が疲れ易くなってきたり、足がむくみ始めたり。1ヶ月位い前からだが腎臓に負担がかかってきたのかなと思っていたら、ナント血管膜が薄くなって血液中の水分が洩れてきているらしい。主治医に何か対処法はないかと聞くと「薬を止める以外どうしょうもないですね」・・・トホホです。ムクんだ足を見るのはイヤなものだから足湯をしたり、足を上げたり、夜散歩で近くのスパーをパスして遠くのスパーまでスイカを毎晩買って食べたりして抵抗しています。今のところ凹んでくれて助かっています。このクソ暑い夏で闘病仲間は大変な努力をしている中、がん患者にGood Newsを先ほど見たので早速アップ。

 

◉【8月11日 AFP】News

遺伝子改変T細胞で末期白血病患者が全快(米研究)

 

患者本人のT細胞(免疫細胞)を遺伝的に改変してキラー細胞とする新たな白血病治療法で、末期の白血病患者3人のがん細胞が死滅または激減したとの研究結果が10日、米医学誌「サイエンス・トランスレーショナル・マガジン(Science Translational Medicine)」と同「ニューイングランド医学ジャーナル(New England Journal of Medicine)」に同時発表され、驚きをもって受け止められている。

まだ開発途上ながら、この遺伝子導入治療は将来、卵巣がん、肺がん、乳がん、皮膚がんの患者にとっても希望の光となるかもしれない。

◉2人でがん細胞が死滅

米ペンシルベニア大(University of Pennsylvania)の研究チームは、患者から採取したT細胞に遺伝子操作を施し、CD19たんぱく質(がん細胞もこれに含まれる)を発現させる全細胞を攻撃するよう改変した。また、副作用を伴わずがん細胞を早期に死滅させるため、他のT細胞とがん細胞が結合した瞬間にT細胞の増殖を促す改変も行った。

◎この治療法を適用した3人の慢性リンパ球性白血病(CLL)患者のうち、1人は64歳男性で、血液と骨髄に3キロ分のがん細胞があった。治療後2週間はほぼ何の変化もなかったが、その後吐き気、悪寒、高熱を訴えるようになった。検査の結果、改変T細胞の数が急増しており、吐き気や熱はがん細胞の死滅時に現れる腫瘍(しゅよう)崩壊症候群の症状だと分かった。治療開始から28日目までにがん細胞は死滅し、1年後の検査でもがん細胞は検出されなかった。

◎2人目の65歳男性でも同様の結果が出た。

3人目の77歳男性では、腫瘍崩壊症候群の治療のためステロイドを処方された後わずかではあるが、がんが再発した。それでも、がん細胞の量は治療前をはるかに下回る状態が続いた。

◎カール・ジューン(Carl June)研究員によると、3人とも改変T細胞の数が少なくとも1000倍に増えた。改変T細胞は平均して1個あたり数千個のがん細胞を死滅させていた。

◉急性リンパ性白血病でも有効性を調査へ

白血病の主な治療法である骨髄移植は、死亡リスクが最低でも20%あり、治癒率も50%程度でしかない。今回の方法ががんの再発をどれほどの期間抑えられるのかは不明だが、改変T細胞ががん細胞死滅後少なくとも1年は残存すること、つまり体が防御態勢を維持することに、研究者らは興奮している。

◎次は、この治療法を小児患者2人とCD19陽性の成人患者少なくとも13人に試す予定だ。非ホジキンリンパ腫、急性リンパ性白血病、中皮腫、卵巣がん、すい臓がんに有効かも調べることにしている。

◎実験に参加した患者の1人は、「今は健康そのもの。永遠にこの状態が続くわけではないことも覚悟しているが、勝利を宣言したい」とのコメントを出した。 (c)AFP/Kerry

 

諦めていた《がん細胞死滅》の希望に一筋の光が射したNews!

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「封印された原爆報告書」

2011年 8月 10日 — 2:00pm

2011.8.10

 

◉「封印された原爆報告書」NHKスペシャル 2010年8月6日放送 ※2011年8月4日再放送)を見た。広島原爆の被害情況を日本の医学者・科学者1300人が原爆投下後の2日後から調査した国家プロジェクト的膨大なデータ・報告書を、心象を良くするためのカードとして(満州で行っていた731部隊の証拠隠滅など)日本自らが、アメリカが要求する前に差し出していたという驚くべき内容!! それも被爆者の治療などではなく、ひたすら原爆の脅威がどれくらいだったかの被害の実態。アメリカ国立公文書館で65年間封印され、ようやく知り得たもの。アメリカはその報告書の結果は、死亡率曲線をデータ化して殺傷能力を知り、当時仮想敵国だったソ連に必要な原爆個数などの軍事核戦略の為に活用したのだ!。また、広島原爆投下4日後の10日に広島に入市した19才の医学生の手記の報告書では、被爆者でもないのに被爆者と同じ症状が出た実態を報告しているにもかかわらず、アメリカ・日本共に入市被曝(内・外部被曝)はなかったとし、放射能の怖さまで封印して今日に至ったのだ。◉一体何故なのか? 国に関わる政財界・官僚たちは敗戦国になってしまったために今まで正当化されていたものが嘘をつかないと正当化出来ず、嘘に嘘を塗り固めて行くうちに日本はこんな情けない国になってしまったのではなかろうか・・・。真剣に真実に向き合わなかったツケが、今の政府の3.11後の原発事故の対応になり、またまた嘘に嘘を塗り固めようとしているが、66年前の無知な日本ではないはずだ?!

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Googlearthのような放射線検査機器を

2011年 8月 6日 — 2:39pm

2011.08.06

 

◉1945年の今日8月6日、午前8時15分、広島に原爆が投下され上空600kmで炸裂。1発の爆弾で約14万人が亡くなったとされています。爆心地から1km以内にいた方のほとんどが死亡、3km以内の建物のほとんどが無くなったようです。◉66年の時を経て本年3月12日、福島第1原子力発電所1号機で水素爆発、続いて14日3号機の水素爆発。大地震に大津波が加わったとはいえ、あってはならない原発事故が起きてしまった。◉児玉龍彦・東大教授によれば、福島にはこれらの事故で広島原爆20個分(ウラン換算)の放射線物質が拡散し、残存量もはるかに多く、影響の広さ・長さははかり知れないと言うことです。(白血球減少で免疫力低下による感染症から始って、7年後には甲状腺がん・白血病、15年後には膀胱がん・前立腺がん、30年後には肝臓がんなどになりやすい)◉児玉先生は子供たちの安全を少しでも守るために汚染地の除染が一番急務なので、南相馬市で除染を実践されています(現在の法律は不適合なので、法律違反を冒して)。二番目に汚染地・食品を検査できる最新鋭の高速機器が必要だと・・・。GooglearthやGooglstreetのように自分の家の放射線量を視覚化して瞬時に判ればどんなに安心出来るだろうか? 最新鋭の先端技術をもってすればアッと言う間に出来そうに思えるが、Googl さん、大至急開発をお願いいたします。実現すれば大いに喜ばれると思いますよ。

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「コクリコ坂から」

2011年 8月 5日 — 3:38pm

2011.08.2.kokuriko

 

◉新作アニメ映画「上を向いて歩こう。コクリコ坂から」を見た。舞台は翌年に東京オリンピックを控えた、1963年の横浜。古いものを壊し、どんどん新しいものを作っていこうとする気運のなかで、横浜のとある高校での恋愛物語。◉「歴史的な時代の変化が日本の国にあったということが届いていない。」永々と伝えられた古き良きものを切り捨て忘れ去られたものの中に、もっと違った可能性があったのではないか。苦しい涙を流した後は「志の旗を掲げ、上を向いて歩こう」よ。と言う宮崎親子の深い想いが込められたアニメではあるのだが、3.11大震災の実体験以降に企画されていればかなり違った内容になって、感動の質が異なっていたことだろうと思うのは私だけではないだろう。

 

8月29日追記:「コクリコ坂から」の企画は一昨年、製作は昨年からだから上記3.11がらみの私の感想は筋違いと反省していた所、8月28日に@miyasan_bot ジブリの森 非公式botの宮崎駿監督のTwitterを読んだ。次回作がますます愉しみです。

 

tuiki.miyasan

 

1963.17.atuya

 

◉1963年と言えば私がまさしく17才、高校3年生の時代だ。映画館の暗闇で見るガスコンロで炊いた吹き出す泡には匂いがしたし(私の家ではまだカマドだったが)、ガリ版切りのシーンでは、京都堀川高校での生徒会執行部室内の仲間が思いだされ懐かしい青春時代が蘇った。私は図書委員ではあったが、生徒会新聞のガリ版切りを良くやらされたものだった。その証拠写真が残っていた(上左写真)。◉生徒会長は山口敦也君(右写真左)と言う健康そのもので闊達な好青年で大親友だった。高校卒業後私がデザイン学校で学び、大阪のデザイン会社で全学連の反安保デモなどを横目に徹夜続きで働いていた時、唐突にその彼の訃報をご家族から電話口で聞いた。そして「最後まで中谷君に会いたがっていた」と・・・。◉なんと25才だった。葬儀に出席しいつの間にか火葬場まで同行することになり、骨を拾う時に見た背骨は、中央20cmくらいだけが真っ白ではなく黄色みがかっていた。詳しい死因は聞き忘れたが多分癌だったのではなかろうか。彼女だと思われる女性もいて彼の骨を素手で拾いカリカリかじっていて「あっちゃん、あっちゃん、どこへ行ったの・・・」とズッと叫んでいたのを忘れられない。◉25才で死ななければならぬ運命を、どんな悔しい想いで受け止めていたのだろうか? そんなことを考えると1〜2週間涙が止まらず仕事にならなかった。(当時デザイン画はポスターカラーで描いていたので、涙が落ちたのでは滲んで完成しない)そして彼のやり残した分まで存分に生きることしか供養はないとなんとか立ち直り、思い出詰まる京都・大阪から東京に出たのだった。そんなことを帰りの電車で思い出してしまった。

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