5年生存率クリア記念日



◯今日9月9日は重陽の節句だが、私にとっては特別の日だ。2008年のこの日に【肺がん初治療】を開始してから丸々5年になるからだ。当初の治療計画であったステージ4期での白金製剤を含む化学療法を受けていた場合【1年生存率は約40〜50%】、手術の出来ないステージ3期で放射線療法と化学療法の合併療法を受けた場合【2年生存率は約30〜40%】。どちらも生存していられる確率の低さに恐れ慄いていたのに、どうした事か幸運にも【数%の確率の5年生存率】に仲間 入りをしてしまった。日本では根治手術が主流だが、アメリカ・ヨーロッパ では放射線治療も根治治療の手段として人気が高いようだ。 体力に負荷をかけないでQOLを高めつつ長くがんと共存しようとの考え方だ。運良く生き残っている経過をふり返ってみると

◯2008年

7月12日: 近くのN診療所所長がこじらせた風邪のレントゲンを見てがんを疑う
(この診療所で30代後半に右肺下に5mmほどの影が見つかりCTを3年撮って経過観察したが、10cm上にあるがんを30年近く見過ごされていたことになる)
7月30日: S医大呼吸器外科へ紹介状
8月04日: PET検査(右肺に約4cm大、左肺に2mmほど光る)
8月07日: S医大に検査入院 内視鏡生検
8月14日: S医大 呼吸器外科 N教授から「肺腺がん」と告知される。
放射線治療は「肺腺がん」よりも「扁平上皮がん」に効果があるためその後の経過が順調なので 「扁平上皮がん」だったのではと言う主治医(現在4人目)も いる。
9月09日:S医大へ2ヶ月半治療入院。抗がん剤(ドセタキセル+シスプラチン)+放射線(2gly×30回=60gly)同時併用治療 開始

◯最初ステージ4期との診断(PETで左肺にも小さく光る箇所があり転移とみなされ)当初の計画では抗がん剤の治療のみだった。しかし娘の結婚式が1ヶ月後に迫っていて、それでは髪の毛が抜ける時期に重なる。めでたい席で京都・四国・九州の遠方からの縁者に余計な心配をどうしてもかけさせたくなかった。なので初期治療を午後から受ける9月9日の朝早く若い主治医に「髪の毛が抜けない治療にして欲しい」と嘆願した所、ステージ3に引き下げ【放射線治療をメインにし抗がん剤を弱目】の治療計画に変更して頂いた。この治療変更が私の生死の大きな分かれ道になるとはその時点では知る由もなかったが•••

◯2008年12月:遅きに失するがセカンドオピニオン外来を東大緩和ケア部長の中川恵一教授に受ける。曰く【受けた治療はおおむね正解でしょう。それでも人間はいずれ死にますから美味しいワインでも飲んで余生を楽しんで下さい。その後に出て来たものはモグラ叩きでやっつけましょう。】とのアドバイス。思いつめていたものが軽くなり上手く解脱させられたようだ。

◯2009年1月:放射線療法の副作用で放射線肺炎発症。右肺の下1/3は肺繊維症で諦めて下さいと言われたがステロイドを半年ほどでいつの間にか元に戻る。

◯2010年10月:原発巣が進行したため再度2ヶ月抗がん剤治療入院。新世代の抗がん剤アリムタを3回受けて退院。外来化学療法室にて3回受けるがどうも私の身体には合わなかった。

◯2011年3月:突如CEAが20.4に急騰したのでアリムタを中止しゲムシタビン(ジェムザール)に変更。副作用が大変少なくしかもアリムタの1/3の薬代だったのでおおいに助かった。

◯2012年11月〜2013年5月までの半年間はクレアチニンが上がり腎臓を守るため抗がん剤休止。


◯2012年12月:ブランハメラ肺炎球菌に感染喀血するも運良く生還。右肺上部1/3が気管支が塞がり無気肺になるものの3ヶ月で回復。

◯2013年5月:腎臓が悪くなると簡単には良くならないものだが食事や散歩・ラジオ体操・R1が功を奏したのか下がってくれゲムシタビンを再開し、現在28クール目を更新中。ただし再開し始めた24クールは激咳・激痰・発熱に苦しめられた。それだけ薬が強力で効いている証拠なんだろう。しかしロキソニンを服用したらアッという間に改善した。

◯2013年9月6日:ゲムシタビンがよほど私の身体に合っているのか、上図3日前の血液検査でも8ヶ月上がり続けたCEAがようやく下がり有効性を印象付けられた。ゲムシタビンは普通4クール、長くても10クール以上続けられる人は少なくエビデンスはとっくに無いだろう。記録をどこまで伸ばせるか解らないが効いているからには続けるしかないのだろう。

Category: 体のこと   |  Comment »


お気軽にコメントをどうぞ!



     

ページの先頭へ戻る